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「いつもの訪問」が最後になった~ケアマネ殺害事件が突きつける、事業所の安全配慮義務~
2026年6月1日、埼玉県川口市の住宅で、定期モニタリング訪問に訪れていたケアマネジャーの女性(63歳)が、利用者の息子に首を切られて殺されるという痛ましい事件が起きました。男性は自らも首を切り、搬送先で死亡しています。男性は高齢の母親と二人暮らしで、亡くなった女性はその母親を担当していたケアマネジャーでした。
この事件は介護福祉業界全体に衝撃を与えましたが、厳しいことを言えば「起こるべくして起こった」という側面があります。訪問中に身の危険を感じた経験が「ある」と回答したケアマネは全体の4割超に上ったというデータもあり、在宅ケアに携わるすべての専門職にとって、他人事ではない現実がそこにあります。
こうした事態に直面したとき、事業所として何をすればよいのか、どう備えればよいのか、具体的な答えを持っていない経営者や管理者の方は少なくないでしょう。本コラムでは、この事件を教訓に、ケアマネが訪問業務において危害を加えられるリスクの実態と、事業所として取るべき法的・実務的な対策について解説します。

「カスハラの最悪の結末」として捉えるべき理由
警察は、高齢の母親と暮らす60歳の息子が、自宅を訪ねた介護支援専門員の女性を刃物で殺害し、自殺したとして殺人の疑いで捜査しています。動機の詳細は捜査中ですが、「一方的な思い込みによる犯行」の可能性が指摘されています。ケアマネの女性は長年、利用者の母親を担当してきた専門職でした。その方が、支援先の家族に命を奪われたのです。
この事件を「特異な例外」として片付けてしまうことは、介護現場にとって非常に危険です。なぜなら、ケアマネをはじめとした訪問系の専門職が置かれる状況は、構造的にリスクを抱えているからです。
利用者宅は「施設」ではありません。職員が1人で相手方の「ホームグラウンド」へ赴くわけです。万一の際に逃げ場はなく、助けを呼ぶことも難しい。カスハラが日常的に発生しやすい環境であるうえ、そのハラスメントが蓄積・エスカレートしていくと、今回のような最悪の事態に至りかねません。
これはカスハラ被害の延長線上にある「究極の結果」です。「暴言を言われた」「怒鳴られた」という段階で適切に対処できていれば、その先にある深刻なリスクを未然に防げる可能性があります。事業所はカスハラ対策を「職員へのサービス」ではなく、「命を守るための経営課題」として捉え直す必要があります。

2026年10月義務化——「対策をしていない」が法的責任になる時代へ
2025年6月に労働施策総合推進法が改正され、カスタマーハラスメント対策が明確化されました。これにより2026年10月1日から企業は、従業員をカスハラから守るための措置を講じることが義務となります。その義務化の直前に、まさに究極のカスハラと言える今回の事件が起きたのです。
改正法により、すべての事業主はカスハラから従業員を守るための「雇用管理上の措置」を講じることが法的義務となります。具体的には、①ハラスメントに関する方針の策定・周知、②相談窓口の設置、③被害を受けた職員への適切な対応、④再発防止策の実施、といった措置が求められます。これらの措置を適切に講じていない場合、万が一従業員がカスハラを苦に体調を崩したり離職したりした際に、企業は「安全配慮義務違反」に問われるリスクが極めて高くなります。
今回の事件を受けて、厚生労働省は2026年6月3日、全国の自治体へ安全確保に向けた取り組みを徹底するよう呼びかける通知を発出しました。「介護支援専門員など在宅介護従事者の安全確保を図ることが重要」と強調し、都道府県や市町村の担当部局に対し、関係機関と連携して必要な対策を積極的に講じるよう要請しています。
国が動いた以上、「知らなかった」「後回しにしていた」という言い訳は通らなくなっていま
事業所が今すぐ取るべき具体策
① リスクアセスメントの実施と記録
まず行うべきは、担当利用者・その家族の状況を「安全リスク」という視点で改めて評価することです。過去に職員への暴言・怒鳴り・脅迫的発言があったか、家族が精神的に不安定な状態にあるか、ケアプランの内容に強い不満・不信感を持っているか、介護疲れや経済的ストレスを抱えているか——こうした「危険信号」を早期にキャッチすることが、事前対応の第一歩です。問題が起きてから動くのではなく、「起きる前に動く」という発想の転換が求められます。担当ケアマネ一人が問題を抱え込まない体制をつくるために、ヒヤリハット情報の共有と事例検討を組織的に行う仕組みを整えましょう。
② 「一人訪問禁止」と複数対応のルール化
訪問看護には「複数名訪問加算」という仕組みがあります。これは看護師が二人で訪問したときにその分の報酬が出るというもので、利用者に暴力行為や著しい迷惑行為などのおそれがある場合に認められています。ケアマネ業務にも同様の発想を取り入れるべきです。
リスクアセスメントで「要注意」と判断した利用者・家族については、複数名での訪問をルール化しましょう。また、訪問前後に事務所へ連絡するチェックイン・チェックアウトの仕組みを設けることも有効です。「出かけたきり連絡がない」という状況を早期に察知できれば、迅速な対応が可能になります。GPS機能を活用したサービスの導入も検討に値します。
③ 「ハラスメント対応方針」の明文化と職員教育
事業所として、カスハラに対する方針を文書化し、全職員に周知することが必要です。特に明確にすべきは「どこまで我慢する必要があるか」の基準です。暴言・脅迫・身体的脅威があった場合には訪問を中止できること、上司に即報告すること、場合によっては警察に通報することを、職員が「自分の判断で行える」と感じられる環境を整えることが重要です。
職員が「我慢するのが当然」「報告すると大げさだと思われる」と感じていては、問題が水面下で蓄積し続けます。報告しやすい組織文化と、ハラスメント発生時の対応フローを整備することが経営者の責務です。実際の場面を想定したロールプレイ研修を実施することも効果的で、「体が動かない」「言葉が出ない」という状態に陥らないよう、事前に身体に染み込ませておくことが大切です。
④ 契約書・重要事項説明書への「ハラスメント対応条項」の組み込み
利用者・家族との契約書や重要事項説明書に、ハラスメント行為があった場合の対応方針を明記することをお勧めします。職員への暴言・脅迫・身体的危害は契約解除事由となりうること、安全確保のため訪問の中止・変更を行う場合があること、警察・行政機関への通報を行う場合があること——これらを事前に明示することは、利用者・家族に対する「牽制」としての効果があります。また、実際にトラブルが発生した際、「最初から説明していた」という証拠にもなります。問題が起きてから困らないためにも、契約段階での予防措置は非常に重要です。
「記録」こそが事業所を守る最後の砦
ここまで述べてきた対策はいずれも重要ですが、すべてに共通して言えることがあります。それは、「対応の記録を残す」ということです。
「どのようなハラスメントが起きたか」「どのように対応したか」「誰が、いつ、何を判断したか」を時系列で残しておくことが、万一訴訟やクレームに発展した際の事業所の防衛線になります。記録がなければ、どれだけ誠実に対応していたとしても、それを証明することができません。「対応した」という事実は、記録によって初めて法的に意味を持ちます。
具体的には、ハラスメント発生の日時・場所・内容・対応者、上司・管理者への報告内容とその指示、利用者・家族との交渉の経緯(電話メモ、メール、書面の控え)、複数訪問や訪問中止などの措置を講じた経緯、警察・行政機関への相談内容と受理番号——これらを記録しておきましょう。

経営者・管理者へ——「職員の命」を守るのは、経営の問題です
今回の事件で亡くなった63歳のケアマネジャーの女性は、その日も「いつもの」訪問に出かけたはずです。毎月当たり前のようにこなしてきた業務の中で、命を落としました。
「うちの職員にはそんなことは起きない」と思いたい気持ちは理解できます。しかし、そう思っていた事業所が今回の事件の当事者になった可能性は、誰にも否定できません。
経営者・管理者が今すぐすべきことは、自事業所の担当ケアマネが「今日も一人で誰かの家に訪問している」という現実に向き合い、その安全をどう守るかを具体的に考えることです。カスハラ対策は2026年10月から法的義務となりますが、法律を守るためではなく、人を守るために動いてほしいと思います。
弁護士 外岡潤

弁護士外岡 潤
弁護士法人おかげさま 代表弁護士(第二東京弁護士会所属)
2003年東京大学法学部卒業後、2005年司法試験合格。大手渉外事務所勤務を経て2009年に法律事務所おかげさまを開設。開設当初より介護・福祉特化の「介護弁護士」として事業所の支援を実施。2022年に弁護士法人おかげさまを設立。
ホームヘルパー2級、視覚ガイドヘルパー、保育士、レクリエーション検定2級の資格を保有。








